産休育休ママのゆるっと資産形成

7歳・3歳・0歳の子がいる産休育休ママが妊娠・出産・家事・育児・家計管理・資産運用・人生を考える話。現在2,100万円運用中。子育て世代のリアルな記録。

死産から3年 失ったものと変わったこと

 

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私は2017年10月に妊娠37週で常位胎盤早期剥離を発症し、第2子に当たる男の子が子宮内胎児死亡となり、死産しました。

常位胎盤早期剥離(以下、早剥)とは、妊娠中に起こる最も恐ろしい状態の1つで、赤ちゃんが生まれるより先に胎盤が剥がれてしまい、赤ちゃんに酸素や栄養がいかなくなって、最悪母子死亡に至るケースもある病態です。

あれから3年が経ちます。

今回はこの経験から、自分が失ったもの、変わったことについてお話したいと思います。

 

 

死産により失ったもの

 

誰にも変えることのできない息子

 

1番上が女の子だから、次は3歳差で、性別はどっちでも元気ならOKと思っていたところに、息子が来てくれました。

男の子はママの小さな彼氏とよく言われてるので、とってもとっても楽しみにしていました。

夫も家族もみんな、息子が生まれてくるのが楽しみで楽しみで仕方ありませんでした。

その息子が突然早剥によりいなくなってしまいました。

妊娠37週4日でした。

36週での出産なら早産、37週以降は正期産なので、あとはもう生まれるだけと思っていました。

自分がそんなことになるわけがない、上の子も安産だったし次もきっと安産だろう、そう思っていました。

誰にもわからないのに。

1人目の出産経験が、過信させていたのでしょう。

悲しくて悲しくて、信じられなくて、まだお腹は大きいのに、ここにいるのに…!

でもお腹の激痛が、聞こえてこない心音が、息子の生命が途絶えたことを物語っていました。

泣いて泣いて泣いて、陣痛の比じゃない激痛で、その出産に何の希望も見出せなくて、絶望感しかなくて、息子1人でお空に行かせたくない、一緒に死にたいと思いました。

でも長女がいるから、夫がいるから、さらに悲しませることはできない、私まで死んだらこの2人はもっと絶望の日々になる、そう思うと生きなきゃ!と思いました。

かわいい息子、本当に本当にごめんね。

私たちのところへ来てくれて本当に本当にありがとう。

いつでも心はあなたと一緒にいるよ。

 

それから毎日息子のお仏壇に手を合わせて語りかけ、お花を飾り、毎月の月命日にはケーキを買って息子の写真と一緒に家族写真を撮り、息子が生きていたら、と想像する日々を送っています。

 

 

献血できなくなった

 

息子の出産時、子宮内では出血していたものの、外には全然血が溢れなかったため、出血量の把握ができませんでした。

出血多量で急にショックを起こさないために、先生から事前に輸血をすることで予防しようとのご判断があり、私は輸血を受けました。

1度輸血を受けると、他人の血液が体内に入るので、もう献血はできなくなります。

まだわかっていない未知の病気が発見された時に、それが輸血してもらった人だった場合、本人の要因なのか輸血による要因なのかがわからなくなるため、輸血された人が今何の病気もなく健康であったとしても、将来的に発見されることもある可能性があるから、と説明を受けました。

輸血をしてもらったからショック状態にならず、誘発分娩で息子を出産できました。

輸血により命がけの出産を、意識を失わずに、帝王切開にならずに、産めたんだと思います。

だからこそ、私は誰かのために献血したい。

でも私の血液ではもう誰の役にも立てない。

コロナで献血する人も減っていると聞き、献血することで誰かの命を助けたいと思ったのですが、私にはもうそれはできません。

献血は人助けだけじゃなく、無料でできる血液検査。

そんな感覚で十分なので、献血車を見かけたら、痛いからイヤ〜と思わずに献血してほしいなぁと思います。

夫は注射とか苦手ですが、私が輸血をしてもらった経験から、前よりは献血に対する意識が上がったようです。

子ども達が大きくなってきたら、私は見ず知らずの人に血を分けてもらって助けてもらったんだよ、と伝えていきたいと思っています。

 

 

死産により変わったこと

 

死を身近に感じ、1日1日を大切にするようになった

 

息子を失って、たくさん生死について考えました。

何で息子がお空に帰らなきゃいけなかったのか?

何で息子だったのか?

悲しくて悲しくて、ずっとグルグルと答えの出ない暗闇の中を歩いてる気分でした。

当時2歳10ヶ月の娘は、目の前に息子がいるのに、何でずっと寝てるの?

何で動かないの?

何で冷たいの?

お空に行っちゃったってどうゆうこと?

ここにいるのに何で?

って思っていたと思います。

夫が一生懸命、ここに体はあるけど、魂がお空に帰っちゃったんだよ、だからもう少ししたら体もお空に返さなきゃいけないんだよって泣きながら説明してくれていました。

長女はその説明で理解できていたのかはわかりませんが、火葬の時に私が長女を抱きしめながら泣き叫ぶのを見て、長女も事の重大さを感じたようで、「ダメーーーーー!」と一緒に叫んで泣いていました。

元気に生まれてくるはずの息子が突然いなくなり、自分も死ぬかもという場面に直面し、初めて死を身近に感じました。

命あるものには必ず死が訪れる。

わかっていたつもりでしたが、どこか他人事でした。

残されている時間は人それぞれ。

明日も同じように朝が来るとは限らない。

そう感じてから、1日1日を大切にしよう、目標を持って過ごそう、と思うようになりました。

手帳にライフログを記したり、子どもができるようになったこと、怒っちゃったこと、子どもが頑張ってること、写真等、たくさん記録するようになりました。

もし自分に何かあっても、子どもたちが私の書きためてきたものを見て感じることがあるといいな、と思っています。

より子どもたちのことを、一緒に過ごす時間を大切にするようになりました。

 

 

救急車に乗ってもいい

 

それまでの私は、我が家はみんなとっても元気だし、母方の祖父は糖尿病で短命だったけど自分は大丈夫、と思っていました。

そんな根拠はどこにもないのに。

健康には自信があったんですね。

そんな私が、まさか救急車を呼ばなきゃいけない事態になるわけがない、ましてや陣痛だと思い込んでいたので、激痛でも耐えてしまい、結果息子を失ってしまったんです。

バカですね。

今まで生きてきて我が家で救急車を呼ぶようなことも1度もなかったし、祖父が亡くなった時に救急車を呼んだらしいのですが、私は実家を離れていたので立ち会えませんでした。

救急車に乗る自分を想像できていたら、息子は生きていたのかもしれませんね。

救急車を使うことは、他人事ではなく自分事。

意識があっても、出血していなくっても、激痛で動けないなら救急車を呼ばなきゃいけない。

意識があるからって、痛みを我慢すれば自分で何とかできるだなんて考えちゃいけない。

何ともできなくて後悔したって時間は戻ってきません。

「時を戻そう」で本当に時を戻せたらいいのにね。

 

 

保険の見直しで、より手厚い補償を

 

昨今の医療技術の進歩により、長寿率が高まっていることもあって、節約のために保険を減らす、という傾向をよく見かけます。

保険は必要最低限でいい、と私も思いますが、息子の死と自分も死ぬかもという場面になり、やはりいつ何が起きるかわからないから、その時のために保険は必要だ、と考えています。

貯蓄としての保険に対しては必要とは思いませんが、やはり医療保険はしっかり加入するべきです。

健康に自信があっても、急に事故に合うかもしれませんしね。

私は第3子である次女を出産後、保険を見直して補償を厚くしました。

ガン家系ではないけど、今は2人に1人がガンになる時代なので、子どもが社会人になるまでは保険も削りすぎず、リスクに対応していけたらと思っています。

 

 

不調を感じたらすぐ病院へ

 

基本的には健康ですし、今までも会社の健康診断しか受けてきませんでしたが、先日初めて大腸ファイバーをしました。

もともと過敏性腸症候群になりやすいタイプで、ストレスが溜まると便秘と下痢を繰り返す方でしたが、2週間ほど便が細く緩く、大腸ガンでは⁈と怖くなったからです。

痛みはないけど、症状を調べたら大腸ガンという名前が出てきて、恐ろしくなりました。

まだ子どもも小さいのに…と、そこまで考えてましたね。

それからすぐに病院へ行き、先生も大腸ファイバーをしましょうとおっしゃられたので、高額ではありますが検査をしてもらいました。

結果ポリープも1つも見つからず、健康な腸だったので、過敏性腸症候群という診断でした。

やはり目に見える検査をしてもらうと安心感が違います。

そろそろ数年に1度ぐらいは人間ドックも受けた方がいいかなぁと考えるようにもなりました。

高額だからなかなかまだ自分事に捉えにくいのですが、不調があった時にはすぐに病院で検査してもらって、気になる部分だけでもクリアにしていきたいと、夫婦で思っています。

 

 

妊婦さんを支えたい

 

最近、職場で2人の女の子が妊婦さんになりました。

年も近いことや、職場に幼児のママは少ないので、妊娠中のことの相談をしてくれています。

私が死産したことを知らない子もいましたが、私はその経験を話しました。

余計な不安は与えたくありませんが、余計な不安を一切持たずに死産した私みたいにはなってほしくないからです。

ある日、お腹が張ると相談してきてくれた子がいました。

触ってみるとまだ5ヶ月なのに強く張っていて、2〜3分張り続けている、座ってても張っている、と言うのですぐに横になるよう声をかけて、その子の上司にも私からすぐに休憩を取らせてあげるよう進言しました。

上司も「行っといで〜」と言ってくれ、横になる時間をくれました。

妊娠中って、病院に行くほどではないけど休んだ方がいいのかなと思っても、自分の感覚だけでは判断が難しいし、休憩させてほしいとは言いにくいものです。

私は看護師でも助産師でも医者でもないけれど、お腹の張りを客観的に見てあげることはできるし、それを上司に伝えることはできます。

ある子は、妊娠を伝えたのに、シフトも夜勤が組み込まれていました。

他の人よりは減らしてるから、と言われたそうですが、介護の現場で重たい人も抱えなきゃいけないし、これからつわりも出てくると仕事どころでなくなるから、夜勤は外してもらうよう言ってみたら?と伝えたところ、上司に掛け合い、夜勤を外してもらえたそうです。

妊娠すると人並みに働けないのを理解してもらえないとつらいし、無理しすぎてしまうけど、少しでも安心してマタニティライフを送れるように、自分にできることはしてあげたいな、と思っています。

見方によっちゃ、ただのおせっかいおばさんですけどね。笑

 

 

まとめ

 

息子を死産してすぐは、後悔と絶望感と無力感でいっぱいで、自分を責めてばかりいました。

自分の判断ミスなのに、病院のせいにしたり、すぐ帰ってこない夫のせいにもしたり、気持ちがぐちゃぐちゃでした。

あれから3年が経ち、その後不安な妊娠期間を経て生まれた次女も元気にすくすく育っています。

あの時たくさん抱きしめてくれて、私と夫の笑顔を引き出してくれた長女への感謝は忘れません。

一緒に泣き、支えてくれた夫は、以前よりも家事や育児をしてくれるようになり、次女はすっかりパパっ子です。

息子の写真を撫でれば、触った場所の感覚がまだ鮮明に蘇ります。

生まれてすぐ抱っこした時の温かさ、感触の全てを、今後もずっと覚えていられるのか不安です。

こればっかりは記録に残せない、記憶だけのものだから。

言葉では言い表せないこの感覚を、ずっとずっと忘れたくない、覚えていたいですね。

息子は私にたくさんのことを教えてくれました。

悲しい出来事だったけど、生命について、人生観について、大きく変わるきっかけとなりました。

息子、ありがとう。

息子の分も、1日1日を大切に、楽しく過ごしていきたいと思います。

 

NHKで常位胎盤早期剥離の特集が放送されます!

 

7月9日(火)18:10〜のニュースほっと関西というNHKの番組で、常位胎盤早期剥離の特集が放送されることになりました!

 

常位胎盤早期剥離(早剥)とは、妊娠中の方の誰にでも起こりうる、とても怖い病気です。

 

早剥は、赤ちゃんが生まれるよりも先に胎盤が剥がれてしまい、赤ちゃんに酸素や栄養がいかなくなる、赤ちゃんとお母さんの命に関わる緊急性の高い病気です。

 

私はこの病気で、息子を妊娠37週4日、臨月に入ってから亡くしました。

 

発症からたった数時間で、これまで大切に大切にお腹の中で育ててきた我が子がいなくなってしまいました。

 

無事に命が助かっていたとしても、脳性麻痺などの後遺症になっていたかもしれません。

 

早剥とは、そんな恐ろしい病気です。

 

でも、私はその名前しか知りませんでした。

 

最初の痛みは生理痛ぐらい。

 

まだまだ動けるし、前駆陣痛かな〜?それとも陣痛始まったのかな〜?って思う程度の痛み。

 

それがあっという間に身動きが取れなくなって、這いつくばって動くのがやっと、どの態勢をとっても痛いし動けなくなる。

 

病院に行きたいけど1人で家から出られない。

 

救急車を呼ばなければいけない、そんな重篤な症状です。

 

早剥になる確率はたった1%。

 

そんな低い確率の病気に自分がなることはないだろうと思っていたし、パパママ教室で名前だけ聞いていても、症状までは頭に残っていませんでした。

 

出血したら早く病院に行かなくちゃ!と思っていましたが、私は出血しなかったのでそこまで緊急性の高い状態になっていることに気づけませんでした。

 

お腹は張り続けるし、痛みの間隔がない。

 

これも特徴的な症状です。

 

みんながみんな、なるわけじゃない病気だし、確率も1%と低いですが、早剥は妊娠中なら誰にでも起こりうる病気です。

 

周りの人で早剥になった、という体験談も聞く機会はかなり少ないです。

 

阪大で早剥についての研究が進められていることの紹介と、どのようにして早剥を予防するのか、という内容だそうです。

 

早剥という病気を、もっと広く知ってもらいたい。

ハイリスク妊婦の第3子出産 〜妊娠中の経過〜

 

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出産前、マタニティブルーのままブログを書いていましたが、ついにこの日がやって来ました。

 

第3子の出産。

 

第2子のことがあったので、不安から解放されることのないマタニティライフでした。

 

↓第2子の出産についてはこちらから。

 

第3子の出産にあたり、妊娠当初から言われていたことは、

👨‍⚕️「1番常位胎盤早期剥離(以下、早剥)になるリスクが高い、妊娠36〜37週で計画自然分娩をしましょう」

ということでした。

 

妊娠32週を過ぎた頃から週2回ノンストレステスト(NST)を行い、赤ちゃんの元気さをチェックしていきましょう。でも、NSTをやっていたからといって、早剥を必ず防げるというわけではなくお守り代わり、とのことでした。

 

NSTで異常がなければ、3〜4日は安心と考えていいと説明してくれました。

 

でも、私はちょうどその頃にりんご病になってしまったため、他の妊婦さんに移してしまうリスクがあり、週2回NSTを行えたのは2回のみだったのですが(^-^;)

 

妊娠初期にこのような説明を受けましたが、後期に入るまでは特に今までの妊娠時と大きな違いもなく、月1回や月2回の健診を受けていました。

 

 

早剥予防のために気にかけていたこと

 

1度早剥になった人は、また早剥になる確率が10倍上がると言われています。

 

2度と繰り返さないために、私が特に気にしていたことは、

  • お腹の張り
  • 羊水の量
  • 胎動
  • 便秘

です。

 

 

お腹の張り

 

私は第1子の時からお腹が張りやすい方でした。

 

立ち上がったら張る、ずっと立ってても張る、横になっていて姿勢を換えても張る、それが当たり前でした。

 

妊娠6〜7ヶ月の頃から1時間に3〜4回は張るのが普通になっていました。

 

今回NSTをしてもらってわかったのですが、自分が張っているという自覚がないのに張っていた、ということもあったようです。

 

気づいていないだけで、1時間に3〜4回では済まないほど張っていたこともあったのでしょう。

 

ストレスが溜まったり、立ちっぱなしの時間が長くなると、お腹の張りも強くなり、張ってるなぁ〜と感じるだけではなく、痛みを感じることも妊娠後期では多かったです。

 

横になって休まないとお腹の張りが治らないこともよくあったので、料理をする合間に横になって5分ほど休むということもしょっちゅうでした。

 

ストレスが溜まってイライラしている時は特にお腹の張りもひどく、通常1分ほどで治る張りも、横になってもエンドレスに張り続けて、ヒドイ時は30分以上続くこともありました。

 

自分がイライラする気持ちをフッと抜けるまで、お腹の張りは続いていました。

 

夫とケンカした後は特にお腹も張り続けて痛くて、病院へ行った方がいいかも、と思うほどでしたが、1人になりバラエティを見て笑えた瞬間、お腹の張りも治ったので、ストレスはお腹の張りに大きく関係していると思います。

 

ストレスを溜めないこと、イライラしないこと、コレすごく大事です!

 

 

羊水の量

 

早剥になった第2子の妊娠中、よく言われたのは「羊水が多い」ということでした。

 

羊水が多いと子宮内の圧が高くなりやすく、早剥になりやすいそうです。

 

それぞれ通院していた病院が違うので判断基準に差があるかもしれませんが、第1子や第3子の時には羊水の多さを指摘されることはありませんでした。

 

念のため第3子の時には羊水の量を聞くようにしてましたが、標準ぐらいだと毎回言われていたので、安心材料になっていました。

 

 

胎動

 

第2子の時、最後の胎動を感じてから、痛みの方ばかりに気が向き、胎動の間隔まで気にかける余裕がありませんでした。

 

もっと胎動のことを気にかけていたら、早くに異常に気がつけたのに…という思いがあったため、第3子の時は最後に胎動を感じたのがいつだったのかを思い返すようにしていました。

 

前に胎動を感じてから何時間経ってるかも思い出せないぐらいになってしまうと、すごく不安になり、赤ちゃんの足を探して押してみて、胎動があるかを確認していました。

 

 

便秘

 

第2子の時、お腹の痛みを便秘の痛みと勘違いして、トイレで腹圧をかけてしまいました。

 

その時に最後の胎動を感じたのですが、苦しいと最後にもがいたのかもしれません。

 

今回は便秘の痛みと間違えることのないよう、整腸剤をもらって、毎日腹圧をかけなくても楽に排便できるようコントロールしていました。

 

 

妊娠後期のトラブル

 

妊娠後期に入り、私は

になってしまいました。

 

妊娠糖尿病

 

妊娠糖尿病になると羊水が多くなりやすい傾向にあるそうです。

 

第2子の時は妊娠糖尿病と診断はされなかったものの、羊水の多さを指摘されていたため、第3子はさらに羊水が多くなってしまうのではないかとビクビクしていました。

 

食事を6回に分け、高血糖にならないように1回の炭水化物の量を半量にして、毎食前後の血糖値を測っていました。

 

血糖値を意識した食事になると、エネルギー量も減り、体重も妊娠前と比べて+6kgとあまり増えなかったため、赤ちゃんがちゃんと大きくなっているのか心配にもなりましたが、生まれてきた赤ちゃんは37週でも2700gあったのでホッとしました。

 

お腹が張りやすいため、あまり運動はできませんでしたが、朝娘を保育園へ送った後、10分だけは毎日歩くようにして、プチ運動療法も行なっていました。

 

 

切迫早産

 

妊娠8ヶ月に入ってすぐ、頸管長が28.9mmまで短縮してしまいました。

 

その頃仕事も申し送りで忙しくなっており、お腹の張りも頻繁で痛みもあり、赤ちゃんが出口に向かって押しているような感覚があって気になっていました。

 

健診時に診てもらうとやはり頸管長が短くなっていたため、先生に診断書を書いてもらい、その日から早めに産休に入らせてもらうことにしました。

 

仕事に行かなくなると立っている時間も減って、お腹の張りも少なくなり、出口に向かって押されるような感覚もなくなっていきました。

 

 

りんご病

 

これは思いもよらないトラブルでした。

 

娘の保育園でりんご病が流行っていたことも知らず、年明けに娘の頰が赤いことが気になり、担任の先生に言ってみたところ、園でりんご病と診断された子が他の学年だけどいたことを知りました。

 

年末は登園する子も少なく、他の学年の子と同じお部屋で見てもらうことも多かったので移ってしまったようです。

 

その頃ちょうど関東でりんご病が流行っていること、妊婦が感染すると死産する恐れもあることなどがニュースでも取り上げられていたため、怖いなぁとは思っていました。

 

でも関東在住ではないし大丈夫だろう、そう思っていたのですが、私の住む地域でもりんご病が流行っていたとは…。

 

娘の頰が赤くなり、もしもりんご病なら私も産婦人科の先生に相談しなくては、と思い、大してしんどそうには見えませんでしたが小児科で診てもらったところ、やはりりんご病だと。

 

りんご病は私に感染し、赤ちゃんにも感染してしまいました。

 

ついでに夫にも。

 

赤ちゃんのことが心配で仕方ないのに、妊婦さんがたくさん来る産婦人科へ私が出入りすることは他の妊婦さんへの感染リスクでしかなく、紅斑などの症状が出てからもしばらくは通院できず不安な日々を過ごしました。

 

紅斑も治り、しばらくしてからようやく病院で診てもらうと、赤ちゃんは貧血になっていました。

 

貧血になると、赤ちゃんの体内の血液量が増えて浮腫むそうです。

 

基準値を超えた貧血になると、赤ちゃんがまだ小さくても早めに出産して直接輸血することが1番の治療と言われていましたが、かろうじてその基準値には達することなく経過してくれました。

 

毎週、その時によっては週2回、超音波で赤ちゃんの脳の血流速度を調べ、貧血が進行していないかチェックしていましたが、最初に貧血になっていると聞いた時から数値はだいたい同じぐらいを保っていたようです。

 

急激に貧血が進行する場合もあると聞いていたため、胎動にもさらに気を配っていましたが、私が痛いと思うぐらい元気に脚を伸ばしているのを感じると、このまま元々の予定の36〜37週までいけそう、と思うことができました。

 

 

貧血

 

妊娠34週頃の血液検査で、今度は私自身も貧血になっていることがわかりました。

 

これはりんご病によるものとは関係なく、妊婦さんは誰もがなりやすいものだそうです。

 

ずっと安静時の脈拍も100回/分を超えていたので、動悸を感じることもあったのですが、この頃から手足のむくみも感じていました。

 

ヘモグロビンの値も一桁になってしまったため、鉄剤と葉酸を処方され飲み始めたところ、動悸も感じられなくなりました。

 

 

妊娠期間を終えて

 

妊娠中いろんな合併症とリスクがありましたが、当初の予定通り37週までお腹にいさせてあげることができました。

 

なんかホント奇跡だなぁって思います。

 

第2子のことがあったから、1つ1つのトラブルにすごくナーバスになって泣くことも多かったし、娘との関わりに対しても我慢させることが多かった。

 

でも、娘もよくわかってくれたし、夫も毎日仕事後まっすぐ帰ってきて家事や育児をしてくれ、赤ちゃんと私のことを気遣ってくれました。

 

夫とケンカすることも、娘を怒りすぎてしまうこともありましたが、家族が1つのチームになって、みんなで赤ちゃんをお腹の中で育てられたなぁと感じます。

 

37週までお腹にいてくれた赤ちゃん、夫、娘に感謝です。

 

 

出産編につづく。。。

 

第3子 無事に生まれました!。゚(。ノω\。)゚。

 

今まで第2子を死産したことをブログで綴ってきましたが、先日ついに。。。

 

元気な女の子を出産しました!!!✧*。٩(ˊᗜˋ*)و✧*。

 

もう本当に本当に嬉しくてたまりません!

 

こんなに不安だったマタニティライフはなかったし、こんなに嬉し泣きをした出産もありません。

 

第1子の娘には悪いけど、1番幸せな出産でした。

 

言葉で表現するならこんな感じ。

 

第1子は、自分から赤ちゃん本当に生まれたよ!ビックリ!スゴイ!な出産。

 

第2子は、何でこんなことになってしまったん?本当にごめんなさい、悔しすぎる、後悔、涙の出産。

 

第3子は、不安で不安で仕方なかったけど、本当に元気に生まれてきてくれてありがとう!1つ乗り越えられた気がする!な出産。

 

出産は十人十色。

 

1つとして同じ出産はないことはわかっていましたが、こんなにも違うんですね。

 

第3子は、切迫早産になるわ、妊娠糖尿病になるわ、りんご病になるわ、赤ちゃんにも感染して貧血になるわ、常位胎盤早期剥離のリスクもあるわで、マタニティブルーにもなるし、本当に最後の最後まで気を抜けないマタニティライフでした。

 

そんな日々を家族、先生、助産師さん、職場の人、友達、たくさんの人に支えてもらって乗り越えて、本当にたくさんの人への感謝ばかりです。

 

先生も、基本は外来担当なので、私の出産に立ち会うことはないだろうと思っていたのですが、入院した日も、出産当日の朝も、病棟へわざわざ来てくれて、不安なことはないか、大丈夫か、と最後まで聞いてくれました。

 

そして外来が終わった後に分娩室に来てくれて、ちょうどもうすぐ子宮口全開!というタイミングだったこともあり、出産の瞬間にも立ち会ってくれました。

 

娘の顔を見れた時、その産声を聞けた時、私の目は涙でイッパイでした。

 

ありがとう。

 

本当にありがとう。

 

この言葉しかありません。

 

お空に行ってしまった息子が、この子を守ってくれたんだと思います。

 

 

イロイロ書きたいことがありますが、取り急ぎご報告まで。

 

またゆっくりペースにはなりますが、第3子の出産のことを書きたいと思います。

 

ここからがまた新たなスタート。

 

1日1日を大切に、悩みながらも夫婦2人で力を合わせ、歩んでいきたいと思います。

 

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死産後の体のこと

 

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これは、妊娠37週4日で常位胎盤早期剥離になり、息子を死産した私の経験談です。

これまでに、発症から入院・出産・退院・お別れまでのことを書いてきました。

最後に、死産後の私の体のことについて記して終わろうと思います。

 

死産でも、出産したからママの体

悪露

悪露はわりと早くに止まりました。

産後2日目までは産褥パットも1番大きい物を使ってましたが、4日目からは昼用ナプキンでも大丈夫なほどに。

1週間ほどで悪露も出なくなりました。

子宮内でたくさん出血していたそうですが、悪露は第1子の時とあまり変わりありませんでした。

 

母乳

産後の私の体は、これから赤ちゃんにおっぱいをあげるぞモードに入っていました。

出産した日におっぱいの分泌を抑制する薬を飲んでいたため、息子を送り出す日までは胸の張りも感じず、1滴も出ないように思えました。

しかし、産後1週間が経ち、息子を送った翌日あたりから、胸がどんどん張ってきたのです。

ついにはカチコチになり、絞らないと熱を持って痛くて耐えられないほどになっていました。

絞ると初乳らしい黄色味がかった母乳が出ます。

搾乳機を使おうかと思いましたが、たくさん絞ってしまうと、体はどんどん母乳を作り出そうとしてしまう、と聞いていたので、手絞りで圧を抜く程度に留めました。

でもまたすぐに胸は張ってきます。

1日に2回ほど手絞りを繰り返しましたが、やはり痛みがあり、近くの母乳外来を予約しました。

死産したことを事前に電話で伝えていたのですが、忘れられており、私の前に施術されていたママと赤ちゃんもまだいるお部屋に通され、幸せそうにしている姿を見るだけでもツライのに、産後の悩みとかを楽しそうに話してるのを見せつけられました。

私の順番になり、電話で話したことをメモしてるだろうと思っていたのですが、メモも取ってなかったのか、全く確認もせず、赤ちゃんは預けてきたのかと聞かれました。

電話したのも1〜2日前なのに、死産したことも伝えたのに、あまりにもプロ意識の欠ける発言にすごく傷つけられました。

そして、電話で話したことも全く覚えていないのか、謝ることさえありませんでした。

カルテ作成のために色々と聞かれ、死産したともう1度伝えたのに、フォローする言葉もなく淡々と息子の身長や体重をさらに聞いてくる無神経さ。

そんな助産師さんに心を開けるわけがありません。

むしろ死産した心のケアも少なからず期待していたのに、期待外れにも程がありました。

悔しくて悔しくて、泣きながらマッサージを無言で受け、たくさんツメの痕もつけられて痛いし、胸は真っ赤になり、しばらくはシャワーでもヒリヒリするほどでした。

プロならツメの手入れぐらいして当たり前。

2度と行くもんか。

そう心に決めました。

同じ助産師さんでも、人は人。

とても優しい方ばかりに支えてもらってきたので、わかってくれるだろうと期待していた私が悪いのかもしれません。

とりあえず胸の張りは落ち着いたのですが、また4〜5日するとパンパンになり、毎日少しずつ手絞りで圧を抜き続け、産後から3週間が経つ頃には胸の張りもおさまってきました。

 

入浴

シャワーはもちろんOKでしたが、入浴は産後3ヶ月以上禁止されました。

娘の産後の時はもう少し早くお風呂に入れた気がしたのですが、気のせいでしょうか。

真冬の寒い季節もほとんど湯船に浸かれず、シャワー後鳥肌を立てる毎日でした。

ゆっくりお風呂に入って癒されたい、温泉に行きたい、という思いもありましたが、先生からOKをもらえた日まで耐えました。

 

抜け毛

死産であろうと、妊娠中に増えた髪の毛は、産後3ヶ月を過ぎたあたりからたくさん抜け始めました。

娘にも引かれるほど…。笑

毎日毎日抜ける大量の毛、こめかみの部分ハゲは女性としてつらかったですね。

第1子の時は抜け毛の時期や生えそろうまでターバンやカチューシャ、帽子で隠せてましたから。

3ヶ月抜け続けた後、産後半年辺りからようやく新しい髪も生え始めました。

でもすでに仕事復帰していたので、周りの目線が薄い部分に向いてるんじゃないかといつも気になってましたね。

これは新しい髪が生えてもツンツンしてる間ずっと気になってたので、抜け始めてから少し伸びるまで約半年はコンプレックスを感じていました。

 

輸血後の血液検査

私はどうやら輸血を1.2ℓ分行ったようでした。

輸血後は、念のため感染症になっていないか検査をする必要があるそうです。

出産から3ヶ月後に採血し、感染症はありませんでした。

大丈夫だろうとは思っていましたが、万が一ということもあるので、感染してなくてホッとしました。

 

生理の再開

産後母乳をあげることもないので、早く赤ちゃんを授かりたい私は、生理の再開を心待ちにしていました。

早い人なら母乳をあげていても産後2ヶ月程で生理が再開する人もいますが、私は娘が卒乳した後でも、なかなか生理が再開しませんでした。

なので、今回もなかなか再開しないんだろうなぁと予想はしていましたが、死産から3ヶ月後、思ったよりも早くに生理が再開しました。

暗闇の中でようやく1つ、スタートラインに立てた気がしました。

 

妊活の開始

先生には、次の妊娠はできるだけ期間を開ける方が良いと言われていました。

1番リスクを回避するなら1年半と。

子宮の回復にも時間がかかり、早剥になった人は次また早剥になる確率が10倍になるそうなので、念には念を、と説明してくれました。

妊娠初期での流産とは違って、1度臨月まで膨らんだ子宮なので、回復にも時間がかかるそうです。

それにしても長すぎて、私たち夫婦には耐えられる期間には思えませんでした。

妊活していてなかなか授からなくての1年半なら仕方ありませんが、妊活すらしてはいけない1年半だと、私たちはどれだけ暗闇を彷徨えばいいのか…と。

診察のたびに何度も先生に聞き、最低でも半年、と短縮してもらうことができました。

生理が再開しても3回は飛ばすよう言われました。

よかった。

半年なら待てる。

次の子は絶対に元気に無事に出産したいから、先生の言う通りにすることを決めました。

 

第3子妊娠

生理が4回来て、息子を失ってから9ヶ月後。

待望の待望の第3子を授かることができました。

娘の時はなかなか授からなくて産婦人科にも通っていましたが、息子も第3子も、ほしいと思うタイミングですぐに授かることができました。

本当に本当に嬉しかったです。

でも、不安で不安で、気が気じゃありませんでした。

死産後仕事復帰するのも迷ったほどでしたが、産後8週を過ぎてもまだ復帰できる気がせず、100カ日の納骨が終わるまで休ませてもらっていました。

仕事復帰から半年での妊娠だったので、職場には申し訳ないとも思いましたが、悲しい想いをしたことを職場の方もみなさん理解してくださっていたので、1回目の病院で正常妊娠だったことが確認できたタイミングで、早めに報告しました。

仕事柄、力を使うことも頻繁にあったので、息子の時は無理して切迫早産になるまでやってましたが、今回は絶対にしないと心に決めていました。

それでもやはり、仕事、家事、育児の両立はしんどく、娘や息子と同じ妊娠8ヶ月に入ってすぐに切迫早産で休職することになったのですが。

上司にもいつまで働けるかと何度も聞かれ、妊娠8ヶ月には切迫早産になる可能性も高いことを始めから伝えていました。

息子の時は私の代わりの人がなかなか見つからず、無理せざるを得なかったので、今回は早めに報告することで、早めの人材確保をお願いしていたのですが、なかなか見つからず。

最終的には何とか確保できましたが、申し送りも最後までできない状態で切迫早産になり抜けることになりました。

そして妊娠糖尿病になり、りんご病にもなって赤ちゃんも貧血になり、4つものリスクを抱えながら、何とか36週まで来れました。

私自身も貧血になり、毎日動悸を感じながら鉄剤を飲んで過ごしています。

計画入院の日程も決まり、誘発剤を使っての計画自然分娩に挑む予定で、最後の妊婦健診を終えました。

息子を失った37週4日より、少し早めに入院することになり、ホッとする自分。

でも、今1番早剥になりやすい36週で、気を抜けない自分。

ちゃんと元気に産んであげられるのか、日に日に緊張は高まっています。

本当にあと少しの妊娠期間。

今度は産声を聞ける、幸せいっぱいの出産になりますように。。。

 

○追記○

泣き続けたあの日から1年4ヶ月後、無事に第3子となる赤ちゃんを出産することができました。

嬉しくて嬉しくて、たくさん泣きました。

あの時元気に産んであげられなかった息子も、お空から応援してくれていたように思います。

暗闇にいた私達夫婦を明るい気持ちにしてくれた次女、いつもたくさん笑わせてくれた長女がいてくれるから、また前を向いて歩いていける。

かけがえのない大切な存在です。

私達夫婦のところに来てくれた子ども達みんな、生まれてきてくれてありがとう。

 

息子 お空へ

 

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これは、妊娠37週4日で常位胎盤早期剥離になり、赤ちゃんを死産した私の経験を書いたものです。

 

ここまで、発症から入院・出産・退院・息子にしてあげたこと・死産後の手続きに関して書いてきました。

 

この記事で、私の死産後10日間ほどのお話は最後になります。

 

 

おうちでの葬儀

 

出産から6日目。

 

我が家には朝から両家両親、妹家族が集まりました。

 

義弟と姪は、息子に会うのが初めて。

 

姪はまだ1歳なのであまりわかっていないようでしたが、息子をよしよししてくれました。

 

みんなそれぞれお花やおもちゃ、靴下などを持ってきてくれて、その気持ちが嬉しかった。

 

私たちはまだ赤ちゃんだしって思ってたから赤ちゃん用のおもちゃしか用意してなかったけど、父は自分が若い頃に買ってずっと飾っていたバイクのプラモデルを持ってきてくれました。

 

男の子らしいおもちゃ、いつか買ってあげたかったんだろうなぁと思います。

 

私が小さい頃から見慣れて育ったそのバイクを、息子のためにと持ってきてくれた父の気持ちが嬉しかったです。

 

夫は息子が家に帰ってきてから、娘に対してピリピリしていました。

 

娘も弟をかわいがってるだけなのに、力加減もまだうまく調整するのが難しい2歳が息子に触れるのが、息子にとって強すぎると思ったようで、大切にしてくれてないと感じたようです。

 

娘に対して何度も怒る姿を見て、私は娘もそんなつもりじゃないこと、大切に思ってるからかわいがりたいこと、一緒に遊びたかったのに遊べなくて娘だって悲しいこと、小さいなりにちゃんとわかってくれてることなど、たくさん伝えましたが、守れなかった息子を守りたい気持ちが強すぎて、娘を敵のように感じているようでした。

 

その気持ちもわかるのですが、死んでしまった息子を大切に思いすぎて、今元気に生きてくれている娘を怒って突き放すのは悲しかった。

 

息子の死が苦しくて、つらくて、やり場のない怒りを娘に八つ当たりしてしまったんだと思います。

 

葬儀の日は娘に加えてまだ1歳の姪もいるし、ロウソクに火をつけていることもあって危ないのが気になり、また夫はピリピリしていました。

 

できるだけ娘たちが火に近づかないよう気にかけ、騒ぎだしそうになると声をかけ、夫が怒らないよう努めました。

 

 

11:00頃、お坊さん2人が来られ、葬儀が始まりました。

 

お経を聞きながら、ボーっとする私たち。

 

時折娘と姪の声が聞こえてきます。

 

2人は義弟や母とお絵かきして遊んでもらっていました。

 

お経が終わると住職が話をしてくれたのですが、何だか疲れてあまり覚えていません。

 

1時間ほどで葬儀は終わり、お布施を渡してお坊さんのお見送りに行きました。

 

息子が生まれてから毎日雨でしたが、この日は1番どしゃ降りの雨の日でした。

 

翌日の火葬の日には晴れてほしい。

 

でも息子も泣いているのなら雨も悪くないね、と夫と話しながら家へ戻りました。

 

戻ると母がお茶を入れてくれ、みんなでお茶菓子を食べてまったりした時間が流れました。

 

頼んでいたお寿司も届き、遅めのお昼ご飯を食べ、16時頃には私の両親以外みんな帰っていきました。

 

私の実家は遠いため、両親はゲストルームにお泊まりです。

 

お昼寝してなかった娘を早々にお風呂へ入れてもらい、夕飯を食べさせ早めに寝かせました。

 

 

最後の夜

 

あっという間に出産から6日目も終わりに近づき、息子と過ごせる最後の夜です。

 

夫は息子と初めてのお風呂に入り、最後にキレイにしてもらいました。

 

お風呂の後はいろんな角度から写真を撮り、ここはママに似てる、ここはパパかなぁ〜と話しながら、全く同じところを見つけては喜んでました。

 

1番似合っていたミッキーのお洋服に袖を通し、顔色もだいぶ明るくなった息子。

 

1番いい写真が撮れたので少し画像を補正してから印刷し、それを遺影にすることに。

 

4人でお昼に家族写真も撮ってもらったので、それも棺の蓋の内側に貼りました。

 

そして最後にパパとママからのお手紙を。

 

マンスリーフォト用にと作っていた用紙は、片側はお名前、片側はメッセージが書ける仕様にしていて、写真を撮る時はお名前のみ写せるよう折って、フォトフレームに入るサイズにしていました。

 

そのメッセージ欄にパパとママからたくさんの大好きとありがとうを込めたお手紙を泣きながら書きました。

 

この夜が明けたら、いよいよ息子はお空へ帰ってしまう。

 

抱っこできるのも、チューできるのも、オムツを替えてあげれるのも、明日火葬してしまうともうできません。

 

さみしい。

 

さみしすぎる。。。

 

最後の日の夜は息子を棺から出し、ベッドに保冷剤を敷いて、4人で並んで川の字になって寝ました。

 

これから毎日こんな風に寝れると思ってたのに。。。

 

 

息子 お空へ

 

朝がやって来ました。

 

時が止まればいいのに。

 

こんなに朝が来てほしくないと思った日はありません。

 

人生で1番大嫌いな日の朝です。

 

みんなそわそわして、6時前には目が覚めていました。

 

すぐに着替えて、人通りの少ないうちにお散歩へ。

 

どうしても息子にお外の空気を吸わせて、お散歩させてあげたかった。

 

外はあいにくのお天気。

 

息子も泣いているのでしょう。

 

みんなで傘を差して、ゆっくりと近くをお散歩しました。

 

家に戻って朝ご飯を食べ、最後のオムツ交換をしていると、両親がやってきました。

 

最後の朝に、4人でもう1度写真を撮ってもらい、絵本を読み、たくさんスキンシップをとりました。

 

出棺の予定時刻になり、葬儀屋さんがお迎えに来ました。

 

イヤだ。

 

行きたくない。

 

でも行かなければなりません。

 

夫が息子を入れた棺を抱え、私はお位牌と遺影を持ち、両親にはお花や私たちのカバン、娘を託して車に乗りました。

 

最後のドライブの行き先は、1番行きたくない斎場です。

 

この日もマイカーでの移動を希望していたので、葬儀屋さん先導のもと、3台で移動しました。

 

夫は自ら運転することを希望しましたが、

「あぁー行きたくない」

と泣きながら車を進めました。

 

渋滞に巻き込まれたのは、息子も行きたくないと思ってたからかな?

 

到着予定時間を10分ほど過ぎ、1番行きたくない場所に到着してしまいました。

 

火葬の前に、最後の時間を過ごせるお部屋を予約していたので、20分ほどですが最後にお顔を見て抱っこすることができました。

 

このまま息子を離したくない。

 

棺に入れて、蓋を閉めてしまえば、それで最後。

 

2度と息子に会うことはできません。

 

このまま息子を連れて外に逃げ出したくなりました。

 

でも、そんなわけにもいかないこと、頭ではわかっています。

 

火葬の時刻もせまり、息子が安らかに眠れるよう、みんなでゆりかごの歌を歌ってあげました。

 

息子を棺に入れます。

 

棺の中は、みんなが持ってきてくれたおもちゃや手紙、お菓子でいっぱいになってました。

 

葬儀屋さんから声がかかり、最後の言葉をかけ、棺の蓋を夫が泣きながら閉めます。

 

「大丈夫やで。怖くないで。パパもママも〇〇(娘)もついてるからな」

 

怖くないわけありません。

 

蓋が閉まって真っ暗で、これから熱い熱い思いをするんですから。

 

息子は私のお腹の中より熱いところなんて知らないんですから。

 

副住職がお経を唱えてくれ、最後のお焼香をします。

 

私も夫も、棺を見つめながら立っているのがやっとです。

 

息子が窯に入れられていきます。

 

私は抱っこしている娘を強く抱きしめ、やめてと叫んでました。

 

娘もこれで弟とバイバイだと察したのでしょう。

 

一緒に泣いて

「ダメー!!!」

と叫んでました。

 

扉を閉める斎場の人を止めようとする私を、夫は抱きしめ離しませんでした。

 

扉は完全に閉まり、スイッチが押されました。

 

夫、娘と3人で抱き合い、ひたすら声を上げて泣きました。

 

息子はお空へ旅立ってしまいました。

 

こんなにこんなに苦しい瞬間は経験したことがありません。

 

もう心臓が動いていないと告げられた日よりもずっとずっと苦しい。

 

もう2度と会えなくなるのに、送り出さなきゃいけないんですから。

 

しばらく窯の前から動けませんでしたが、義父に促され待合室へ移動しました。

 

それから1時間も経たないうちに、息子は骨になりました。

 

小さな小さな骨。

 

1つ1つ全てを拾ってあげたい気持ち。

 

でも直視もできない自分。

 

私は大きな骨を少しだけ拾い、夫と両親、妹達に任せました。

 

娘も

「〇〇おほねになったん?」

と、わからないなりにわかろうと必死です。

 

娘も拾いたそうにしてましたが、熱くてヤケドするのも怖いので、大人だけで拾いました。

 

夫は最初から最後までずっとお箸を握り、汗をかきながら全てをキレイに拾ってくれました。

 

細かい破片1つも取りこぼしたくないから、と。

 

お骨になった息子は、小さな骨壷に入れられ、夫に抱えられて外へ出ました。

 

外に出てみると雨は上がり、雲の隙間から太陽の光が見えました。

 

あぁ、息子はちゃんとお空へ行けたんだなぁ。

 

さみしいけど、きっとこれでよかったんだ。

 

これからはお空から私たち家族を見守ってくれる。

 

そう感じることができました。

 

疲れ果てた私たちは、父に車を運転してもらい、家へ帰りました。

 

お骨の入った骨壷を簡易のお仏壇におさめ、しばらく空虚感でボーっとしてました。

 

それからみんなで食事に行き、改めて夫からお礼の言葉を伝えてもらい、それぞれ解散しました。

 

遠方から来てくれた両親も、夕方には家路へつきました。

 

 

息子がいなくなって…

 

私は家族以外の人に会うのが怖かった。

 

しぼんだお腹を見て、生まれたことをおめでとうと言われるのが目に見えてたから。

 

娘の保育園への送り迎えも、できれば行きたくなかった。

 

出産した日は義父母に娘を迎えに行ってもらったから、保育園の先生方には息子のことを伝えてもらっていました。

 

普段迎えに来ない義父母が迎えに来たことで、遭遇したママ友は義父母から起きたことを聞いた人もいたらしいけど、1人か2人。

 

出産の4日後には娘の運動会もあったので、夫と義父母しか来ていないところを見て、生まれたんだろうなぁと想像していたママ友も多かったと思います。

 

でも、夫は仕事だし、娘の送迎をいつまでも行かないわけにもいかないので、息子の火葬の2日後から送迎を再開しました。

 

園へ行くと、園長先生と主任の先生が出てこられ、泣きながら抱きしめてくれました。

 

その温かさに、私も涙が止まりませんでした。

 

ママ友にも早速会いました。

 

やはり聞かれます。

 

「運動会来てなかったし、生まれたんですね〜。おめでとうございます!」

 

何て説明していいのやら。

 

でも、はぐらかすわけにもいかないし、本当のことを言うしかありません。

 

私の話を聞き、私より先に泣き出すママ友。

 

どんな反応をすればいいのか、何て声をかけたらいいのか、戸惑うママ友もいました。

 

そりゃそうです。

 

自分だって予想もしてなかったし、元気に生まれてくるものだと思ってましたから、どんな反応だって受け入れられました。

 

何人ものママ友に会うたびにその都度説明するのはつらかったけど、自分の気持ちを話せるきっかけがあったことで、少しずつ真っ暗闇から抜け出せたようにも感じます。

 

なかなか会えない友達には、生まれた?って聞かれる前にメールで報告しました。

 

返事をするのもしんどい時期だったので、事実だけを報告し、返事はいらないと、素っ気なく送ってしまいました。

 

みんなも返す言葉に困ると思ったし、顔を見てではなくメールだから、余計に言葉に迷うかなぁと。

 

それでもメールを返してくれる子ばかりで、中には後日お花を送ってくれた子もいました。

 

そんな心遣いのできる友達を素敵だなぁと思ったし、自分もそんな人になりたいと思いました。

 

月命日を覚えてくれていて、メールをくれた友達もいました。

 

逆に、息子の話題には触れないようにしていた友達もいました。

 

息子の命日の前日に、妊娠報告をしてきた友達もいました。

 

その時私にも同じ頃が予定日の第3子がお腹にいましたが、このタイミングで報告する気になれず、年明けまで黙っていました。

 

人の温かさ、自分の黒さをたくさん感じた日々で、感情のアップダウンも激しく、出産を来週に控えた私は、今完全にマタニティブルーです。

 

ちょっとしたことでイライラし、八つ当たりし、ナイーブになり泣く。

 

息子が亡くなった週数に近づくにつれ、どんどんアップダウンは激しくなっています。

 

お腹の張りも増え、軽い痛みを感じると尚更不安になります。

 

第3子を守りたくて、あの時の夫のように、娘に敵意を感じる時もあります。

 

娘を大切にしたいのに、何度も同じことを言っても動かない娘にイライラして怒鳴って傷つけることも増えました。

 

こんなママ、娘だって息子だってイヤだよなぁって頭ではわかっているのですが、心に余裕がありません。

 

この子が無事に生まれたら、少しは気持ちも楽になるのかなぁ?

 

不安は尽きませんが、この子を信じて、できるだけイライラせず、穏やかに、優しい気持ちで過ごしたい。

 

どうか無事に、今度は泣いても心からの笑顔でこの子に会えますように。。。

 

 

こんな長文に、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

 

死産後の手続きなどあれこれ


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これは、私が妊娠37週4日で常位胎盤早期剥離になり、赤ちゃんを死産した後のお話です。

 

死産という現実と向き合うのは苦しかったのですが、赤ちゃんを送り出す準備もすぐに進めなければなりません。

 

出産の翌日、助産師さんが死産後のことについて、教えてくださいました。

 

死産のケースも受け入れることが多いためか、その後の流れをまとめた用紙を渡してくれました。

 

口頭で聞いても覚えていられる精神状態ではなかったので、こういう準備がされていることはとても助かりました。

 

 

病院からの死産後の案内

 

  • 特に葬儀屋さんが決まってなければ、病院から紹介することもできる。

 

  • 埋葬の手続きなどは病院で行うことはできないので、葬儀屋さんにやってもらうか、自分たちで行わなければならない。

 

  • 自分たちで埋葬の手続きをする場合は、市役所へ死産の届出をする前に、埋葬する斎場と日時を予約し、病院に報告する。

 

  • 病院からもらう死産届に必要事項を記入して市役所に提出し、埋葬許可証をもらう。

 

  • 埋葬許可証を病院に見せないと、赤ちゃんを病院から出すことはできない。埋葬許可証はコピーでも可。埋葬許可証なしに自分たちのみでマイカーで移動することは禁止されており、法律上死体遺棄とみなされる。

 

  • 葬儀屋さんに埋葬の手続きや移動を全面的に依頼する場合は、埋葬許可証がなくても構わない。

 

  • 亡くなった人を病院外に出すには、棺または箱に入れなければならない。赤ちゃんであろうと、抱っこで出てはいけない。

 

ということでした。

 

いわゆる喪主と呼ばれる役割をすること自体、夫も私も初めての経験なので、わからないことだらけです。

 

亡くなった方の移動に霊柩車が使用されるのはそういうルールがあるからだということも、この時に初めて知りました。

 

 

葬儀屋さんとの相談内容

 

義父がもしもの時にご贔屓にしている葬儀屋さんに連絡してくれ、頭もボーっとする中、夫と私も話を聞かせてもらいました。

 

  • 赤ちゃん用の棺は常に用意があるわけではないが、翌日の退院までには必ず手配し持っていく。

 

  • 葬儀屋の方で市役所関連の手続きをすることもできるが、どうしたいか。

 

  • 葬儀をどのような形で執り行うか。

 

  • できるだけ希望に添えるようにするので、何でも言ってください。

 

私たちの心情を察し、とても親身に聞いてくださいました。

 

 

私たちの希望

 

  • 息子にとって退院して家に帰ることは、初めてのお外であり、初めてのドライブなので、マイカーで移動したい。

→OK

ただ、棺に入れてないといけないので、外の景色を見せたりはできない。

葬儀屋さんの車とマイカーの2台で移動することにしました。

 

  • 市役所関連の手続きも、全て自分たちでやってあげたい。でも全くわからないため、一緒に付いてきてほしい。

→OK

まず市役所に死産届を提出しに行き、その後埋葬許可証を持って斎場で火葬の手続きをする。

その後赤ちゃんを迎えに行き、病院へ埋葬許可証のコピーを提示する。

👨‍💼「全部教えながら進めるので、何でも言ってください」

 

  • 葬儀は自宅で家族のみで行いたい。お通夜はしなくていいが、お経はあげてもらいたい。

→OK

葬儀屋さんからお寺へ日取りの確認をしてくれることに。

細かい内容に関しては直接夫が住職と相談して、希望を伝えることになりました。

 

  • あまり日にちを延ばすのは良くないとわかってはいるが、できるだけ一緒にいたい。保管について、どうしたらいいか教えてほしい。

→OK

希望の日にちを言ってくれたら、できるだけ合わせる。

保管については、真夏ではないためドライアイスの交換を1日おきにすれば可。

赤ちゃんは皮膚が弱いため、冷やしすぎると余計に皮膚が傷んだり色が変わることもあるので、ずっと棺に入れて冷やしておかないといけないこともない。

やりたいことは全部やってあげる方が赤ちゃんも喜ぶので、たくさん抱っこしてもいいし、あまり厳密に保冷のことを考えなくてもいい。

産後の体の回復のこともあったので、出産から7日後に埋葬することにさせてもらいました。

 

  • 赤ちゃんの場合、どの程度遺骨が残るのか教えてほしい。

→赤ちゃんの骨は小さいので、火葬の窯が熱くなっている2番目以降になると温度が高くなるスピードも速く、骨が残りにくい。

朝1番の火葬なら窯が冷えている状態で始まるので、2番目以降よりは残りやすいと思う。

順番も、まだ日にちがたくさんあるので選べるだろう。

朝1番の火葬でお願いしました。

 

  • おもちゃや手紙を棺に入れてあげたい。

→OK

斎場の人にはあまりおもちゃを入れないでと言われるかもしれないが、気にしないで入れたい物を入れて良い。

 

  • 布団を作ってあげたいが、棺に付いているのか?付いているなら、それを加工してもいいのか?

→棺には布団と枕がついているので、加工しても構わない。

布団カバーと枕カバーを作ってあげることにしました。

 

全て私たちの希望を聞いてくださり、不安だった部分も解消してくれました。

 

 

死産後の手続き

 

死産届

 

出産の翌日、助産師さんより死産届をもらいました。

 

私たちが左側に必要事項を記入してから、右側に先生が内容を記入してくれる、という流れです。

 

私たちが書く内容は、名前や住所、生年月日などの基本的な項目のみです。

 

夫と私、それぞれ記入しました。

 

先生が記入してくれたのは、

  • 赤ちゃんの生まれた日時
  • 妊娠週数
  • 性別
  • 身長・体重
  • 胎児死亡のタイミング(分娩前・中)
  • 自然死産か人工中絶か
  • 死産の理由(胎児の原因か母の原因か)

などです。

 

なぜ常位胎盤早期剥離になったのかを調べるために、赤ちゃんを解剖することもできるがどうしたいか、と先生に聞かれていましたが、苦しんで生まれてきたのに、これ以上かわいそうな想いをさせたくなかったので断りました。

 

なので、赤ちゃんに原因があったかは正確にはわかりませんが、早剥の場合のほとんどは赤ちゃんに原因はないそうです。

 

死産の理由には、母側の原因しか書かれていませんでした。

 

息子は何にも悪くないのに、私のせいで…という想いを改めて突きつけられる書類でした。

 

そんな書類でも、息子に関する数少ない公式書類だから、と葬儀屋さんがコピーして保管しておくことを勧めてくださいました。

 

自分たちだけではそこまで気が回らなかったので、提出する前にコピーできてよかったです。

 

 

死産届の提出、埋葬許可証の受取

 

息子を病院に預け、夫と私と葬儀屋さんで死産届を市役所へ提出しに行きました。

 

提出場所は、戸籍に関することを扱う窓口で、出生届も取り扱う場所です。

 

本当なら出生届を提出するはずだったのに…。

 

出産後に死亡した場合なら戸籍に載せることもできるのですが、出産前にお腹の中で死亡した場合、戸籍に残すことはできないそうです。

 

お名前も決めてたけど、公式の書類として、息子の名前を残すことはできないのはつらかった。

 

埋葬許可証にも、息子の名前を書く欄はありません。

 

事前に葬儀屋さんが予約してくれていた斎場名と死産届を元に埋葬許可証が作成され、手渡されました。

 

 

埋葬許可証の提出

 

病院に埋葬許可証を見せないといけないのでコピーを取り、斎場へ向かいました。

 

埋葬許可証を受付に提出し、火葬費用を払いました。

 

相場がいくらなのかはわかりませんが、私たちが選んだ市立の斎場ではたった2,000円でした。

 

あまりの安さにビックリです。

 

あっけないなぁ〜とさえ感じました。

 

 

息子をお迎えに

 

市役所、斎場での手続きを終え、ようやく息子をお迎えに。

 

埋葬許可証を見せると、助産師さんが息子を連れてきてくれました。

 

息子は棺に入れられ、手を組んでもらい、キレイにお布団をかけてもらってました。

 

自分たちでも手を組ませてみたりしてたのですが、赤ちゃんだからなのか死後硬直というものを私は感じられず、うまく組むことが難しかったので、さすが助産師さんだなぁと感じました。

 

 

葬儀の打ち合わせ

 

葬儀屋さんの車とマイカーの2台で家へ向かい、家で葬儀屋さんからその後の流れについて聞きました。

 

  • 火葬の前日にお寺の住職に来てもらい、家で葬儀を行う。

→日にちは葬儀屋さんから住職に連絡して押さえてくれていたので、時間と参加人数をこちらから連絡しました。

 

  • 住職へのお布施の封筒は、「御布施」「御車代」「御膳料」の3枚が必要。葬儀屋さんで手配できる。

→封筒の用意は葬儀屋さんにお願いしました。それぞれの金額は義父と相談し、義父の言う通りに包みました。

 

  • 住職に出すお茶菓子などは、自分たちで用意する。

→近くの和菓子屋さんで購入し、義母が用意してくれたお茶菓子用のお皿に乗せてお渡しすることに。

 

  • お花は葬儀屋さんでも手配できるが、割高なため自分たちで用意してもいい。赤ちゃんの棺に乗せて一緒に火葬されるため、花束のような形で良い。

→葬儀屋さんで頼むと1万円からになるとのことで、近くのお花屋さんに頼むことに。

電話で赤ちゃんの葬儀に使うこと、男の子だったこと、かわいらしいイメージで白をベースに作ってほしいこと、予算を伝えてお願いしました。

翌日夫に取りに行ってもらいましたが、白と淡い水色、薄い黄色の組み合わせで、息子のイメージにピッタリな花束を作ってくれていました。

 

  • 葬儀後、火葬後の食事はどうするのか。葬儀屋さんで手配することもできる。

→パンフレットを見せてもらいましたが、最近は絶対に精進料理ということもないようで、お肉やお魚が入っている物の方が多かったです。

義父母に精進料理にこだわるか聞いたところ、今はそうゆう流れなら気にしなくていいとのことでした。

精進料理でなくていいなら、お店で食べるなり、出前を取るなりすればいいので、自分たちで用意することにしました。

 

最後に葬儀費用の説明を受け、見積書をもらい、葬儀後に現金でお支払いしました。

 

 

とても親切で、私たちの想いをたくさん組み込んでくれた葬儀屋さん。

 

今まで葬儀屋さんとお話したこともなかったので、勝手なイメージを持っていましたが、とてもいい職業だなぁと感じました。

 

人の最期の時を、どのように送り出すか。

 

最期にしてあげたいことはどんなことなのか。

 

それを巧みに聞き取り、叶えられるように最善を尽くす。

 

終活としてエンディングノートに自分がどうしてほしいかを記録しておくこともできるような時代ですが、私たち30代にとってはまだ先のことで考えたこともありませんでした。

 

親も祖母もまだまだ元気ですし、祖父が亡くなった時もまだ学生で何も考えてない頃でした。

 

人の最期の時を一緒に寄り添い、その人らしい送り方を提案する、とてもやりがいのある温かいお仕事です。

 

担当してくださった方には本当に感謝です。

 

 

あと1つ、葬儀のことを書いたら、この死産に関する記事も最後になります。

 

私の第3子の出産の予定も決まりました。

 

あと少しの一心同体の時間。

 

1番常位胎盤早期剥離になるリスクの高い時。

 

このまま何もなく、無事に入院の日を迎えられることを信じて、息子に毎日無事に生まれてこれるようお願いし、入院の日を待とうと思います。

 

私たちにとって、神様や仏様より1番にお願いするのは息子です。

 

きっと息子が支えてくれるはず。

 

大丈夫と信じて、あと少しのこの胎動を感じていたいと思います。